私はあまりビートルズが好きではない。
いや、ビートルズの楽曲がどうこうじゃなくて、
それらを取り巻く人々の奇妙な熱気に、
辟易してしまうのだ。
特に、常にビートルズが流れる店舗。
ブランドショップ・ラーメン屋・居酒屋・・・
挙げればキリがない。
ただ、「またかよ」と思うと同時に
「なぜそこまで」という疑問・興味が湧く。
そういう意味でビートルズ(のその辺縁)には
思考対象・観察対象としての魅力がある。
大型商業施設の場合は「イメージ戦略」
比較的小規模な個人店では「店主の趣味」
と、一言で済ませることも可能だが、
後者にはやはり奇妙な熱気を感じざるをえない。
わざわざ「奇妙な」と表わしたのは、
ビートルズに対する異常なまでの愛着、
そういった「特定の何か」に執着すること自体
さして珍しい現象ではないものの、
ビートルズの楽曲の群を抜いたポップ感と知名度により
人々の熱を帯びた行動の異様さが緩和される点に対して
何とも言えない違和感を感じるからである。
常にビートルズしか流さない店と
常にアニメソングしか流さない店のどこに違いがあるのか。
アニメソングは例として挙げただけにすぎないが、
このような特定の嗜好に偏った店舗などの場合、
「棲み分け」が意図的・自動的に行われるのが普通である。
にもかかわらずビートルズにはそれがない。
繰り返しになってしまうが、それを可能にしているのは
ビートルズの楽曲のポップ感であり、知名度なのだろう。
こういうことを言うと
「ほら、ビートルズって素晴らしいだろう?Love & Peace !!」
と得意気になる人もいるだろうが、
はっきりさせておく。その言動が苦手なのだ。
確かにビートルズの楽曲は素晴らしいと思う。
キャッチーで、ポップで、なかなか新鮮さを失わない。
解散からもうすぐ40年が経とうとしているというのに
いまだ多くの熱狂的信者を獲得し続けていることが
全てを物語っている。
じゃあ、その原動力はどこにあるのか。
これは憶測というか、個人的な意見でしかないが
もしかするとポピュラーミュージックは
ビートルズによって一つの完成系を体現してしまったのではないだろうか。
だからこそ、いまだにビートルズなのである。
もし本当にそうだとすると、俗に言うポップス/ロックの
ビートルズ以降の歴史に、果たしてどんな意味があるのだろう。
時代性?
既にあるものの焼き直しを正当化するこの言葉は
時代を超えた音楽の前ではあまりにも虚しく響く。
夏といえばやっぱり祭。
男衆がハッピを着て神輿を担ぎ
お囃子にあわせて女衆が踊る祭。
心なしか大人も子供も、
とても誇らしげな表情をする祭。
こんな時代でもやっぱり
脈々と受け継がれているものがあることを実感できる。
けれども世の中にはへんちくりんな祭も多いらしい。
どう考えても悪ふざけとしか思えない。
昔の若者がふざけてやっていたことが
いつの間にか伝統になったんじゃないか。
そう思わざるを得ないような祭。
けど伝統にしてしまった方の勝ち。
それならば、「新しい祭」でも考えてみようか。
まず祭に必要なのが意味だ。
祭には何かしらの意味がある。
代表的なものは五穀豊穣祈願、雨乞いあたり。
これから始めようとする祭の意味としては
さすがにちょっとどうかと思うので
このご時世に祈願したいことを考えてみる。
まぁぱっと頭に浮かぶのは景気回復、温暖化の改善くらいか。
どちらも捨てがたいが、ここはやっぱり景気回復だろう。
株価上昇を祈願する祭。
我ながらなかなか。
さて、次に必要なのは儀式だ。
いまや株取引はネットが当たり前。
画面を見つめ、「ここぞ」というタイミングでクリックして
株を売買する。よし、これをデフォルメしよう。
白布で覆われた台の上に並べられたマウス。
その年に選ばれた数人が緊張した面持ちで位置に付く。
行司の掛け声とともに各人が思い思いのタイミングでクリック。
静寂の中にカチッ、カチッ、という音が響き渡る。
あ、キーボードでもいいな。エンターを押下。
これを「取引終了」までの間、淡々と続け、
行司が株価上昇を宣告して終了する。
次の「取引開始」までは男衆が街を練り歩き
誰彼かまわず胴上げしてまわる。
もちろん景気回復を願って。
と、ここまで信じられない位絶好調だったけど、
伝統として根付くために必要な地域性が欠けていることに
今さらながら気付いてしまった。
せっかく株券に見立てた紙を持って踊るくだりも考えてたのに。